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『全国屈指の巨大空堀のある箕輪城』

箕輪(みのわ)城は現在の高崎市箕郷(みさと)町にあり、今から500年ほど前に戦国時代の武将長野業正(ながのなりまさ)によって築城され、武田信玄の侵攻を幾度となく防ぎ、“難攻不落の城“として知られています。

 

 

 

 

現在の城跡は徳川家康家臣の井伊直政(いいなおまさ)が箕輪城主となった1590年から高崎城へ移る1598年までの在城中の姿が遺構として残り、国指定史跡に指定され、日本百名城の一つにも選ばれた、幾多の戦いを繰り広げて来た名城です。

 

 

 

 

 

「業正(なりまさ)がいる限り、上野(こうづけ)の国(今の群馬県)を攻め取ることは出来ぬ」と武田信玄を悩ませたそうです。

 

信玄の侵略を防いだ戦いは6回とも9回とも云われていますが、箕輪城跡のあちらこちらに鉄壁ともいえる防御の仕掛けが見られます。

 

最大の見どころは、“全国屈指の巨大空堀(からぼり)“です。

 

 

 

 

特に本丸を取り囲む空堀は、幅30〜40メートル‼︎、

深さ約10メートル(実際には現在の地表から7メートル以上深く、20メートル近い深さだそうです‼︎)

 

 

 

 

 

永禄4年(1561年)11年、長野業正は病の為に没し、17歳であった三男の業盛(なりもり)が家督を継ぎます。

業盛は父に劣らず武勇に優れていたそうです。

 

 

 

 

父の死後、武田勢の攻撃を一度は撃退するも、永禄9年(1566年)、武田信玄が2万の大群を率いて侵攻。

業盛は懸命に抗戦しますが、ついに、本丸の北側にある“御前曲輪(ごぜんくるわ)“で、父業正の位牌を拝みながら、一族郎党と共に自害します。

 

 

 

 

「春風に梅も桜も散り果てて名のみぞ残る箕輪の山里」

享年23歳、業盛辞世の句です。

 

 

 

 

私の母である住江は、戦後“箕輪小学校“の先生をしていました。

 

 

 

 

この箕輪小学校は開校150周年を迎えた歴史ある学校ですが、この箕輪小学校の裏手(北側)に箕輪城があります。

(校庭の奥に森のように見えるのが箕輪城です)

おそらく、先生であった母は子ども達を連れて、この箕輪城には何度も通ったと思います。

 

 

 

 

私は小学校の裏手から通じる“観音さま口“からのルートも歩いてみました。

 

さらに進むと、“木俣曲輪(きまたくるわ)に出て、視界が一気に広がりました。

 

 

 

 

手前にはかつての城下町が並び、箕輪小学校も良く見えます。

そして、その先には、高崎や安中の市街、そして埼玉、東京へと関東平野が展開しています。

 

 

 

 

この雄大な景色を若き日の母が見ていたと思うと感慨深いものがあります。

 

関東平野を扇に例えると、まるで要(かなめ)のようでもあり、戦国時代、いかに重要な拠点であったのか、ということを実感します。

 

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