トーキョーバイクに乗って旧中山道を蕨宿から浦和宿へ
旧中山道の蕨宿のあたりでは古い建物が散見できます。
いいですね。
風雪に耐えてきた佇まいを感じます。
それではスタート。
休日の朝は行き交うクルマも少なく、気持ち良くトーキョーバイクを走らせます。
トーキョーバイクはこぎ出しがとっても軽やか。
だから気分も軽く走れるんです。
旧中山道の蕨宿のあたりでは古い建物が散見できます。
いいですね。
風雪に耐えてきた佇まいを感じます。
トーキョーバイクを気持ち良く走らせると〝一里塚の跡〟に出会います。
江戸の日本橋から5里。
私のホームタウンであるさいたま市南区辻にある、この〝一里塚の跡〟は旧中山道と東京外環道が交わるところにあり、高架を走る東京外環道はまるでチューブに覆われた未来都市の道路のようです。
昔、ここを行き来した人には想像もつかなかったでしょう。
ここから浦和宿までは1里。
六辻の交差点で17号国道と交差し直進します。
ここまでは平坦な道でスイスイとやって来ましたが、この先には焼米坂が待ち構えています。
中山道をゆく旅人にとって、約160メートルというこの坂は難所であったようです。
〝新名物焼き米〟との看板を出して焼き米を食べさせる茶屋が数軒あったとと伝えられ、それがいつしか地名となったそうです。
かつて、私の祖母が焼米坂について語ってくれた言葉を覚えています。
「浦和(町へ)行くときにはいつも秋田犬の飼い犬が焼米坂まで送って来てくれたんだよ。焼米坂まで来ると家(辻にある)へ帰って行くんだよ。偉かったねぇ」
大きな秋田犬がリードなしで旧中山道を独りで行ったり来たり・・
今から80年ほど前の時代と思います。
もう戻ることのないおおらかな時です。
古い写真の焼米坂。その頃でしょうか?
さて、トーキョーバイクですが、思いのほかスイスイと登ることが出来ました。
やっぱり、軽さが効いているのでしょう。
実はこの焼米坂あたりまで今の東京湾が入り込んでいたんですよ。
今から3000年前はこのあたりから陸地だったそうです。
浦和とは浦曲(うらわ・海辺の曲がって入りこんだところ)が語源と言われ、歴史に最初に現れるのは今から1000年程前の鎌倉時代に読まれた歌人藤原家隆の歌に〝浦わ〟が登場します。
ですから、浦和には岸(岸辺)とか高砂(砂丘ですね)とかの地名が残っています。
私は旧浦和市立高砂小学校、同岸中学校の出身ですが、今の南浦和駅の周辺の台地で良く貝塚拾いをして遊びました。
焼米坂を登り切ると道はフラットになります。
やがて、右手にケヤキの森が見えると、調神社(つきのみや)です。
この神社は狛犬ならぬ狛うさぎで広く知られています。
うさぎさんが迎えてくれます。
私たちにとっては氏神さまです。
このあたりから浦和の街並が続きます。
残念ながら、歴史を偲ぶ建物はあまり多く残っていませんが、
〝青山茶舗〟は昨年、国の登録有形文化財に答申されたそうです。
店の裏には喫茶ギャラリーの〝楽風〟があります。
こちらは〝文壽堂・原田表具店〟歴史のある建物です。
〝中山道浦和宿〟こんな記念碑がありました。
県庁前通りを過ぎると〝浦和銀座〟です。
〝玉蔵院〟への門前通り。
奥には〝玉蔵院〟の山門が見えます。
ここのしだれ桜は美しいです。
左手に和式の洋風レストランの〝菱富〟
右手の奥にはイタリアン食堂で知られる〝サムシング本店〟
そういえば、コロナ禍でどちらの店にもずっとご無沙汰です。
〝菱富のオムレツ〟や〝サムシングの真夜中のスパゲッティー〟
心おきなく食べられる日がきますように。
コロナ禍でも浦和人としてやめられないのはこちら、
〝山崎屋さんのうなぎ〟です。
最近はもっぱら〝鰻重の折詰〟
ここ2年間のコロナ禍でも「決算が無事終えた」とか「忘年会のつもりで」「新年会の代わり」にとかホントお世話になっています。
〝山崎屋〟さん、昔は奥までずーっと離れ家の座敷が作られていて、まるでうなぎの寝床のようでした。
私の父もお気に入りの鰻屋でした。
さて、浦和宿ですが、
突然、現れた農婦さんにはギョッとしました。
かつて本陣のあった辺りは市場が定期的に開催されて賑わっていたそうです。
戦国時代から始まった市は毎月一と七のつく日に開催され、農作物や各種生活必需品が取引されていたそうです。江戸時代そして昭和の初めまで続いたとのことです。
常盤公園の近くに浦和宿の本陣があり、江戸時代初期このあたりは〝浦和御殿〟と呼ばれ、徳川家康や徳川秀忠が鷹狩りの際の休憩所として使用され、その後は江戸幕府により保護管理されていました。
常盤公園のキャラボクの木が見事です。
トーキョーバイクで走ると普段気づかなかった景色やモノが見えてきます。
まさに寄り道ができるバイク。
コロナが落ち着いたら次はトーキョーバイクでのカフェ巡りが楽しみです。