旧中山道を行く。ズーマーに乗って日本橋から蕨宿まで
休日の朝、ふと思い立って日本橋に行ってみました。
相棒は〝ズーマー〟です。
この原付スクーターは永いこと会社の倉庫で眠っていましたが、ガソリンタンクの交換やキャブレターのオーバーホールで蘇りました。
このズーマーは最近人気だそうです。
江戸時代の日本橋は五街道(東海道、中山道、日光街道、奥州街道、甲州街道)の起点として交通や物流、経済の要所でした。
その後、明治政府はここ日本橋を〝日本国道路元標〟と定めます。

日本橋に立ってみると、やはり首都高速道路が覆いかぶさってしまっていることを残念に思います。
今、日本橋周辺の約1.2キロメートルを地下化する事業が動き出しましたが、完成は早くとも20年後と言われています。
いつかの日か覆いの取れた日本橋を見てみたいものです。
さあ、日本橋を出発です。

早朝の中央通り。
左手は日本橋三越です。
江戸時代なら越後屋さんでしょうか?
休日の早朝、空いた道をズーマーは快調に走ります。
神田須田町から万世橋を渡って左に折れ、湯島の聖堂と神田明神のあいだを抜けます。
通った大学が近くにあったのでこの辺りは良く歩きました。
そして本郷三丁目。

本郷三丁目の交差点の右手に、日本のロードレーサーとしての草分けとして有名な〝エベレスト〟ブランドの土屋製作所がありました。自転車競技のレーサーであった私は高校生の頃よく通いました。
さらに交差点の先を右に入った菊坂通りに20代の頃、出入りしていたレース雑誌の〝オートテクニック〟の編集部がありました。
懐かしい界隈です。

有名な東大の赤門。
ここには縁がありませんでしたね(笑)
この先を左に折れて白山上から千石を抜けて巣鴨へ。

ここは〝とげぬき地蔵〟で有名な巣鴨の地蔵通り。
私の叔母がこの通りから入った旧家に嫁いでいたので良く遊びに来ました。
この地蔵通りは旧中山道そのもので板橋宿へ続きます。
都電荒川線(庚申塚駅)をまたぎ進み、次は埼京線(板橋駅)を越えると旧中仙道は17号国道にぶつかります。
板橋郵便局を左手に見て17号国道を突っ切ると、

板橋宿の門が目に飛び込んで来ます。
ここが旧中山道ですね。
道幅の狭さに雰囲気を感じます。

ここが板橋宿の中心地であった中宿。
日本橋から最初の宿場町でした。
ちなみにこの辺りは廃藩置県当時は浦和県(現埼玉県)から東京に編入されたようです。
なるほど・・
どうも板橋には親近感がある訳だ(笑)
その板橋の地名の由来はこれ!

なんと!
石神井川に掛かる〝板の橋〟!!
私の通った高校は板橋区内にありましたが、板橋の名前の由来なんて教えてくれませんでした(笑)
板橋の板の橋が現在のコンクリート製に変わったのは1932年(昭和7年)だそうです。
志村一里塚のある志村坂上から下ると、現在の東京都と埼玉県の境を流れる荒川に差しかかります。

荒川に架かる橋はなく、旅人は船による渡しを利用しました。
渡し場の管理は下戸田村が行なっていたようです。
当時の荒川は平時で幅100メートル位でしたが、増水すると荒川の水は数キロにも渡ったそうです。
難所だったのでしょうね。
ちなみに、ここに橋が掛かったのは1875年(明治8年)木製の戸田橋が完成しました。
そして、いよいよ蕨宿へ到着です。

蕨はかつての宿場町の様子を残そうとしています。

ここ蕨には本陣跡も残されていて、現在は蕨市立歴史民族資料館に隣接しています。


私にとっての休日の朝はとびきり幸福な時間です。
この日の朝、一緒に走ってくれたのはズーマーでした。
楽しい時間をありがとう。